生き方の幅

2017年8月9日 at 10:38 PM
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我々のパーソナリティだとか生き方の幅だとか、そういうものが社会的に既に規定されていると構造主義者は主張する。

しかしその主張がなんだろう。世界に投げ捨てられた我々が不条理に日々直面することに変わりはない。

我々は日々の不条理に直面するごとに…いや人生丸ごとの不条理に直面するごとに、何かに還元されることなく我々の問題が我々自身だけの問題であることを知る。

社会ごとに質は違えど直面する実存的問題は操作不可能な不条理という点で変わらない。

問題に直面する主体の都度の決断は代替しようがない。これもまた構造主義者はパターン化して把握可能だというのだろうか。

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  • しかし、それでも、直面する当事者は我々だ。決断や決断に付随する行為のオーナーは我々なのだ。

    そこに構造主義に還元されえない実存主義の仕事が隠されている。いや仕事というか我々の人生の課題か。

    構造主義が「既に決まっている」と主張する。だが我々には既に決まったものとの闘いが待っている。

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